スピ化が止まらないアラフォー日記

マインドフルネス、瞑想、易経、心理学、脳科学、幸福論…etc、色々研究しています。

どうして惹かれる文章とそうでない文章があるのだろう?

拝啓お元気ですか?

 

最近の私のお気に入りはネット上でブログを読んだり、コラムを読んだりすることです。まあ、単に暇だっていうのもありますが…(苦笑)そして、どうやら反響を呼ぶ文章とそうでない文章というものがあることに気がつきました。この差はなんだろう?興味がてら私なりに検証してみました。(あ、これまったくの素人の検証ですのでご了承ください)

 

惹かれる文章とそうでない文章、その差はいかに?

 

皆様も経験ありませんか?

読んでいて何が言いたいのかわかりにくいメール。読んでいて途中で飽きてしまうコラム。特に長いだけの何が伝えたいのかよくわからないメールなんて本当に困ったものです。

 

逆に、ぱっと読むだけで相手が何が言いたいのかすぐに分かるメールなんてのもあります。コラムも然り、短いけど心にささるコラムは沢山あります。分かる分かる、それ私も考えたことある!みたいな。

 

結論から言いますと、惹きつけられる文章に共通しているのは「意見」と「論拠」がとても明確だっていうことです。

 

例えばホリエモンさんの文章の反響が大きいのは、良かれ悪かれ、とても意見がはっきりしている。しかも論拠が理論整然としている。多少偏った意見だったとしても。

 

意見:寿司屋の修行なんて無駄だ。

論拠:すし屋で長い間修行なんかしなくても、技術的なものは今時どこでも、極端に言えばネットのYouTubeでも学ぶことができる。

 

といった具合に。逆にわかりにくい文章は意見や論拠が明確に書かれていない。なんとなくつらつらと書かれていることが多いのです。読んでいる方からすれば、一生懸命読んだ先に”結局その人が何が言いたいのかがよく分からない”のはつらい。

 

まだネット上のコラムとかであれば、飽きたらその場から離れればいいだけですが…仕事上のメールでこれをやられると本当につらい。「結局こういうことですよね?」と確認メールをしなきゃいけないなんて、本当に無駄だと思ってしまうのです。

 

だから自戒の意を込めて。文章を書くときは意見を明確に、必要であれば論拠も明確に。よく長く説明すれば伝わるだろうと思っている人がいるけど、それはまったくの逆。長くなくてもいいから分かりやすく明確に!を心がけようと思います!

 

*ちなみに今、長くて分かりづらいメールに苦戦している最中。嫌になってブログに逃げてきたパターンです(涙)

 

惹かれる文章にはある種のパターンがある?

 

そしてどうやら惹かれる文章にはある種のパターンがあるのだと気がつきました。今のところ私が気付いたのは3種類。

 

1、共感型

2、反感型

3、知識型

 

共感型は「そうよね私もそう思う!」と読者の共感を呼ぶ文章です。例えば闘病日記とかもこれに当てはまるかもしれません。「私も同じ病気をしています。あなたの気持ち良く分かります」といったように。こういうタイプの文章を書くときは、ですます調で自分の内面的なものを中心に書いたほうがいいと思います。

 

一方で反感型というのは「全くもってけしからん考え方だ!」というふうに反感を買うタイプの文章です。人の心情を逆なでするタイプの文章といいましょうか??よくネット上で炎上しているのもこのタイプの文章です。でも不思議なもので、人はそのような意見に反感を持ちながらも惹かれるようです。その証拠に反論を添えながらも、皆が一斉に拡散している(笑)炎上並みの反響を呼びたいなら、このような文章を乱発するのもありではないでしょうか。

 

最後の知識型というのは、欲しい情報が書かれていて、読者に明らかなメリットを与える文章です。このような文章を書く人はSEOを気をつける必要あります。外部から検索でやってくる人が多いので。またこういうタイプの文章を書くときは、である調の方が説得力が増すようです。

 

三者三様で、どのタイプも読んでいて面白いのですが「じゃあ、お前の書いているこのブログは何なんだ」と聞かれれば、うーむ…このどれにも当てはまりません。

 

本音を言いますと、このブログは私の「自由気ままブログ」

 もっと言えば「自己満ブログ」です。

 

なんてこった!OMG!

 

ですからこのブログは本当にクソおもしろくないと思います。間違って読んでくれた方はお付き合いさせてしまって、本当に申し訳ありません(汗)

 

なぜ人はネット上では批判的になるのだろう?

拝啓、お元気ですか?

 

この記事を読んで、確かにそうだよなぁーと思いました。

blog.tinect.jp

 

この記事を抜粋するとこう書かれています。

なぜネット上では皆、厳しい批評家になるのか?お店では「ありがとう」と言えるのに。ネット上では情報を得ているのに「ありがとう」とは言わずに「クソ面白くない」などと厳しい批評家になってしまう。たまには情報の恩恵を受けている立場であることを思い出して「ありがとう」と言いたい。

 

ハッとしませんか?これを読んで、確かに「いい情報をありがとう」とはあまり言っていない自分に気付かされました。

 

ネット上では厳しいことを平気で言えるわけ

ふと心理学の先生から教えてもらったことを思い出しました。人間には公的自己意識と私的自己意識があり、ネット上ではどうしても公的自己意識より私的自己意識の方が強くなってしまうそうです。だから平気で厳しい批判や意見を書けるのだと。

 

公的自己意識、私的自己意識とは何かと言いますと

私的自己意識とは「自分の内面的・個人的側面」を意識することであり、公的自己意識とは「他人から見た自分」を意識することをいいます。 もっと簡単に言いますと自分の感情や自分の考えを意識するのが「私的自己意識」で、他人が自分をどう思っているのかを意識するのが「公的自己意識」です。

失礼、用語の説明を長々としてしまいました(汗)本題に戻します。

 

結論から言いますと、ネット上で人は自分の考えや感情を意識する私的自己意識が強くなるため、相手にどう思われるかを考えずに厳しい意見や批判を言ってしまう傾向があるのです。確かにそう、リアルの世界では厳しいことを言う人はそんなにいないのに、ネット上では厳しい意見、批判的なコメントが溢れている。

 

こんなことを言ったらこの人傷つくだろうなぁと相手を思いやる気持ちよりも、自分の感情にまかせて自己主張をしたいという人が多いのは、ネットという匿名性のある特殊な環境により、他人から見た自分を意識する力が弱くなっているから。相手を傷つけているという他人の感情を推察する力が弱くなっているからです。

 

これはあおり運転にも当てはまる心理現象

この公的自己意識と私的自己意識の問題は、今よく問題になっている煽り運転にも当てはまるのではないでしょうか。急に乱暴な運転をしたり、嫌がらせのような運転をするのは、相手がどう思うかよりも自分の気持ちの方が勝っているからです。相手の顔が見えないから私的自己意識に脅かされてしまっている。

 

ネット上の思いやりのない意見・コメントといい、あおり運転といい、相手の顔が見えないことが原因の一つだと思います。おそらく相手の顔が見えれば、相手も感情がある一人の人間だということを意識するはず。

 

いくらネット上で相手の顔が見えないとは言え、やっぱり人は人。顔が見えないからといって相手に心がないわけではありません。単なる批判だと流すことはできますが、本心は正直ですから傷つきます。ネット上であっても常に他人を思いやる気持ちを持っていたいものです。そして、情報を提供してくれた人に「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えるようにしたい。これは自戒の意味も込めて。

 

今日はそんな話が伝えたくて。

結局、私たちは何者でなくてもいいんだよ!←ジ〜ン(涙)

拝啓、お元気ですか?

 

先日、#グッバイルサンチマンという劇を鑑賞してきました。たまたま夫の関係でチケットが手に入ったのです。テンポも良くてなかなか面白い話でした。

 

かつては演出家を目指したが志半ばで諦めたYou Tuber女子とアンチリア充のブログ作家が恋をする物語です。元々はそのYouTuber女子が自分のネタを探すためにブログ作家に近づいたのですが。

 

YouTuber女子はもっとバズる面白いネタを作るために、モラル的に反したようなことまでやってしまいます。でも相変わらずネット上ではバズらず、その上周囲からはバッシングを受けてしまう。いまどきの話ですね。

 

情報に溢れる社会だから自分を見失ってしまうのかも

まぁ、こーゆーストーリーだったのですが、私が1番心に響いた言葉が、銭湯に通う常連のおじさんが諭して言ったセリフです。

「結局、私たちは何者でなくてもいいんだよ。何者になるとかではなく、自分にできることをやって、それを喜んでもらえればそれでいいんだよ」

(スミマセン、若干セリフが違うかもしれませんが、こういうニュアンスの言葉だったはず。汗)

 

今の世界、情報がたくさん入ってくるので、目の前のできることをやると言うことを忘れがちなような気がします。つまり「自分探し」に走りがち。どこか遠い世界の人を見たり、いろんな業界の情報を得ることができますよね。普段では会うこともないようなITの社長や政治家など、自分とは違う世界を身近に感じることができる。これはこれで良いことですが、自分の枠の範囲を超えた情報をたくさん得ることによって、目の前のできることをやるより、何者かになろうと「自分探し」に走りがちだと思うのです。志が高いからそうなってしまうのですが。

 

私も昔は自分探し、結構していました。誇りを持てるような何者かになりたかったのかもしれません。でもこう色々と経験を積み重ねてくると、結局は目の前の人に対して自分にできることをやるのが1番だと思うようになりました。目の前の人を喜ばせるために。

 

今は主婦をしております。副業も少ししておりますが、あくまでも本業は主婦。目の前にいる家族を喜ばせるために、美味しい料理を作ったり。かつては思ってもみなかったのですが「主婦業って楽しい!」そう思うようになりました。側から見ると分かりにくいかもしれません。でも目の前の人のために自分にできることをやるって、けっこう充実しているのです。

 

今日はそんな話が伝えたくて。

自分の人生を最大限に生きるための「多動力」

拝啓、お元気ですか?

 

ホリエモンさんの「他動力」を読みました。

 

彼はいつも人とは違ったコメントをする方だなぁと思っていたのですが、この本を読んでみて「なるほど、さすがに色々と意見を求められることはある。オリジナリティーのある考え方を持っている方だなぁ」と深く感銘を受けました。

 

寿司屋の修行なんて必要ねぇの意味

ホリエモンさんはコツコツとやる、馬鹿真面目にやることは無駄だとバッサリ切っています。私たちは小さな頃からコツコツとやる事は大切なことだと教えられてきました。しかし、重要なのは、目的を達成するために要領よくやることなのだと。

かつてTwitter で寿司屋の修行なんて意味がないといったことがあるそうです。もちろん炎上したそうですが(笑) そんな何年もかけて寿司屋で修行をするぐらいなら、寿司の握り方を教えてもらえる学校にでも行って、さっさと握り方をマスターした方がいいと。確かにそうですよね。その方が人生いろんなことに挑戦できます。そしてそれは自分の身となり糧となる。

 

完璧主義ではなく完了主義で

そして馬鹿真面目というものを否定しています。人から信用を得る事は大切ではあるが「手抜きをしてはいけない」と言う思い込みは捨てた方が良いと。たまに手を抜いたってバレないと。

 

確かに、仕事ができる方と言うのはいつも100点を取ろうとしているわけではなく、80点でたくさんの仕事をこなしていると言う印象があります。良い意味で、完璧主義者じゃない。80点のものが出来上がったら、完了したとしてぽんぽん次に行く。この要領よく次から次へとこなす力が、業務量が増えている今現在においては大切じゃないかなぁと思います。

 

仕事を真面目にすることは大切ですが、完璧主義になってしまうとそれは単なる自己満足のような気がします。「完璧主義ではなく完了主義で」。ホリエモンさんも主張されていますが、この意識が大切なんじゃないでしょうか。

 

イライラ会議の呪縛から解かれよう

ところで皆様は無駄な会議の時どうしていますか? のらりくらりと、物事が進んでいるような進んでいないような、そんな会議よくありますよね。私はそのような会議の時、イライラしながらもひたすら我慢していました。「まぁこういうこともあるよね〜」と半ば諦めて。

 

でもホリエモンさんが潔いのは、そーゆー時間は無駄だとバッサリ切り捨てて、会議中でも自分がやりたいことをスマホで始めるそうです。これ、やりたくてもなかなか出来ないですよね。人の目を気にしてしまって。でもよく考えれば、他人の時間ではなく自分の時間を生きることってとても大切です。会議でのらりくらりした議論に付き合っていると言う事は、無駄に他人の時間を生きていることになります。そんな他人のよくわからない議論に付き合う位であれば、自分がやるべきことをやったほうがはるかに良い。これは本当にその通りだと思います。

 

「長い会議だなぁ、無駄な時間を過ごしているなぁ、自分の時間を返してよ」そう思うのならその通り行動に移せばいい、さっさと見切りをつけて自分の時間を生きなさいと言うのがホリエモンさんの主張。これからは無駄な時間にイライラしてストレスを溜めるより、潔く自分の時間を生きるようにしようと思います(笑)

 

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

 

「時は金なり」の本当の意味を教えてもらいました

拝啓、お元気ですか?

 

「時は金なり」とよく言いますよね。私は「時間は貴重だから無駄にしたらダメよ」という意味だとずーっと思っていました。確かに時間はぼーっとしていたら、あっと言う間に過ぎていきます。過ぎた時間は取り戻せない。

 

分かっています。分かっていますよ。分かってはいるけど…

 

小さな時からボーッとした子だった私にとっては、時間を大切に使うのが苦手だったりします。気がつけばボーッとしている(苦笑)

 

さて、そんな私が苦手とする格言「時は金なり」ですが、別の解釈もあるようです。

 

時空間を利用してお金を生む?

 

横軸を自分の器、縦軸を時間として考えます。

そして10年後、20年後、30年後…自分はどうなっていたいのか、自分のセルフイメージを明確にする。10年後の自分はどんな器でいたいのか、20年後の自分の器は?じゃあ30年後は?

 

どんどん自分の意識を未来へと広げる。10年後、20年後、30年後、自分はどんな器でいたいのか。どんな活動をしてどんな風に生きていたいのか。そのためにはどれくらいのお金が必要なのか。そこまで明確にイメージします。

 

自分が意識する時空間を広げれば広げるほど、そのセルフイメージを叶えるためにお金は入り出すそうです。例えばソフトバンクの孫さんは、50年後まで具体的に自分のセルフイメージを描いているそう。

 

なるほど。これなら私にも出来そうです。妄想を広げるのは得意ですから(笑)

 

50年後の自分を妄想してみた

 

そんなわけで30年後、50年後まで妄想を広げてみたのですが、どうやら私は大金持ちになって贅沢な生活をしたいわけではないみたいです。むしろお金はあっても、それに準ぜず「普通に生きている」。

 

週に1度ほど安いゴルフ場でゴルフをしたり。この妄想が50年後…つまり90歳半ばの年齢にも関わらず、元気にぼちぼちゴルフをしているという(笑)おそらくハーフでギブアップかもしれませんが(笑)

 

毎日ぶらぶら散歩したり、90歳半ばの私は日向での〜んびりしていました。そして側には夫の姿が。私が望む未来のセルフイメージは「愛する存在と穏やかに過ごす」。それで十分なのでしょうね。

 

皆様は30年後、50年後、どのような自分の姿を思い描きますか?

今日はそんな話が伝えたくて。

「顔に全部でる」は本当だった

 

「拝啓、お元気ですか?」

 

この言葉を聞いて、山下達郎の「お元気ですか?」のCMを思い出したそこのあなた!おそらくアラフォー世代ですね?バレてますよ〜(笑)

 

そんな話はさておき、たまたまテレビで国会中継がやっていたのですが。

 

議員の表情を観察していたら退屈な国会中継も楽しいものに

 

 その時は立憲民主党の山尾 志桜里(やまお しおり)さんが与党の大臣を追求していたのですが…はい、綺麗なお方ですよね。ちょっとワイドショーを騒がせしたりもしていますが。

 

ja.wikipedia.org

 

きっと意地悪なこと考えていたのでしょうね〜。本当に「意地悪そう」な顔をして追求していたのです。まあ、野党側は与党を困らせてナンボの世界ですから、しかたないのですが。とは言え、人ってこんなに顔に出るんだ!怖っ!と改めて思ったわけで。

 

かたや追求されている大臣は「もうそれ以上、追求しないで…」ときっと困っているんだろうな〜と分かるぐらい、本当に困ったような顔をしていて、それはそれで面白く。

 

追い詰められていく大臣を見て、嬉しそうに、ますます意地悪そうに目を釣り上げて追求していく山尾議員。なんだか山尾議員が獲物を追い詰めていくハンターに見えてきた。。。そんなに瞳孔開かなくても(笑)

 

こんなわけで人間観察にばかり気を取られて何を議論していたのか全く頭に入ってこなかったのですが、とにかく国会中継は人間観察の宝庫でした。

 

犬でも感情が顔にでるのだから、人間なんて…

 

顔に感情がでると言えば、犬もです。我が家には気の強いメスと気の弱い心優しいオスがいるのですが、この気の強いメスがまぁ本当に意地悪をするのです。

 

オスの子の餌をとったり(かと言って自分は食べない)、オスの子を自分は平気で踏み付けるくせに、ちょっと踏まれただけでキレまくったり。この子の性格悪い話をあげ出せばきりがありません。どれだけ性格悪いんだ…と思われるかもしれませんが、とにかく本当に性格が悪いのです。でも、まぁこの性格の悪さが人間臭くて(犬臭くて?)好きなんですけどね。

 

ただこの子、顔だけはめちゃくちゃカワイイ。こんなにカワイイ子がこんなに性格悪いなんて〜(OMG)と思うぐらい。でも確かに意地悪している時は、目が三角になって釣り上がっているんですよねー。「あ、こいつ意地悪なこと考えているな」とすぐ分かる(笑)

 

犬でもこれだけ表情に出るのですから、人間なんてもっと表情に出ているはず。

優しい気持ちだったら出ていても問題ありませんが、意地悪な気持ちはちょっとね〜。ネガティブな感情ほど要注意。自分も意地悪なこと考えている時、顔に出ないよう気をつけなくちゃ!なんて思うのでした。

 

成功しているかどうかを決めるのは自分なのだ!

拝啓、お元気ですか?

 

ある心理学の先生にこう聞かれたことがあります。

「あなたにとって成功とは何ですか?成功者とはどのような人を言いますか?」

 

うーむ、成功者とは…その時私は色々考えました。

 

私:例えば大きな財産を成した人、事業を大きくした人、画期的な商品を開発した人。つまりすごいことを成し遂げた人…ですか?(自信なさげ)

 

先生:その「すごいこと」はどのような基準で決まるの?

 

私:他人が「すごい」と思うかどうか…かな?(自信なさげ)

 

先生:それじゃあ、成功者になるのはなかなか難しいね〜!

 

私:はい…確かに、成功者になるのは大変だと思います(汗)

 

先生曰く、成功とは「功を成す」ことすべてが成功であり、何を成功と捉えるかどうかはすべて自分次第なのです。逆に他人からどう評価されるかなんて関係ないと。

 

例えば事業を大きくすることも功を成すことですし、毎日10個の英単語を覚えることも功を成すこと。莫大な財産を築くことも功を成すことですし、美味しい手料理を振る舞うことだって功を成しているのだと。「功を成す」という基準は自分で決めればいいのです。

 

そして成功基準のハードルを上げるのも下げるのもすべては自分次第です。であれば成功基準のハードルを下げて、成功体験をたくさん積んだ方が良くないですか?どうせ生きるのであれば幸福感に満ちた人生にした方がいい。

 

このように先生に教わってから、私はこれまでの自分がイメージしていた成功基準を下げてみることにしました。何か目標、目的を達成したら、どんな些細な事であってもそれは成功であると承認するようにしたのです。

 

美味しい手料理を振る舞って夫を喜ばせたら…よし、成功!

筋トレをして筋力が上がったら…よし、成功!

英語の単語が10個でも覚えれれば…よし、成功!

営業案件が一つでも取れたら…よし、成功!

 

こんな風に、普段なら見過ごすような細かいことまで成功であると承認するようにしたら、とってもハッピーな気分に。人の気分ってこんなにも自分でコントロールできるのだと改めて気付かされました。

 

こんなにハッピーな気分になるのはマズローの欲求五段階説で言うところの承認欲求が満たされているから。マズロー先生曰く、承認欲求は「他人からの承認」と「自分自身による承認」のどちらでも満たされるそうです。

 

ご参考までに…

マズローの欲求五段階説とは人間の欲求は5段階の階層からなるとし、一番高次の自己実現の欲求に向けて成長してくとする理論を言います。

人が持つ5段階の欲求

生理的欲求 < 安全の欲求 < 社会的欲求 < 承認欲求 <自己実現の欲求

自己実現理論 - Wikipedia

 

どんな些細な事でも功を成していればそれは成功です。そして成功の基準は他人ではなく自分で決めることができる。だったら、どんな些細なことでもそれは成功であると認めてあげて、よりハッピーな気分で毎日を過ごした方がいいよね!

 

今日はそんなことが伝えたくて。